夏目漱石「こころ」

 高校時代にこの作品の一部を教材として読んだ人も多いのではないだろうか、私もその一人である。
昨年の替え表紙文庫隆盛の折、つい私も何か買いたく思い、全部読んだことがなかったのと、新潮らしい品のいい表紙に釣られて買ったままになっていたのを、最近になって読んでみた。
 教科書の収録範囲(私のは確か「下 先生と遺書」の四十〜四十八であった)では、若き日の先生の人としての汚い部分ばかりが目に付いたが、全体を通して読んでみればKの方がよほど人として不出来であるように思えた。改めて全て読んでみて、第一に感じたギャップである。
作中Kを人として更生させようとする先生の姿は基本的に善人のそれであり、対してその温情を歯牙にもかけず、理想ばかり語るKの姿は愚鈍のそれと言うほかにない。
下における先生の二面性は「人間の善悪両面は、すべからく人一人に同居している」という「こころ」全体通しての主張を、先生が体現していると考えれば自然な対比といえるだろう。
Kがロクデナシに思えるのは、そうした先生の姿に比して、短所ばかりでなんらその美点も上げられていないことに起因するように思われる。


 大方の印象批評はそれくらいにして作品の主題、この作品に著されたものを一言で考えるならば、やはり漱石お決まりの近代的自我とエゴの問題に帰すのが無難といえるかもしれない。巻末に付された三好行雄の解説には概ね首肯していいように思われる。
先生を「明治」という時間に限定した漱石の形代と捉えれば、自我に目覚める近代的日本人を認める一方で、その過去に捕らわれ続ける旧人類としての日本人の姿が見て取れる。
その接点に「エゴ」というものを考える時、近代的個人、その自我が必然的に内包した「エゴ」というものを許容しきれなかったのが旧人類であったのではないだろうか。
 エゴを許容することとは、自分の中にエゴを認めること、利害関係や合理性の主体を個人である自身に帰して事象を捉えることと言っていいと思う。そういった利己主義的な側面が、明治以前の人々には欠落していたのではないだろうか。
その原因は家という因習もあろうし、厳格な身分制度があったということもあろう。近代以前においては、たとえ利己的行動をとったとしてもそれは家のため、もしくは身分という属性に与えられたいわば所与の我が侭であった。
そうした中で生まれ育った人々が、いざ法に触れさえしなければよいと各人に等しく与えられた自由の上に立ち回り、改めて自身の内なる貪欲な自我を認識させれたらどうなるか。
自由と表裏一体の自我の業というものは、天分の下に生きてきた幼い彼らにはあまりにも重過ぎたのではないだろうか。
 そうした目線で捉えれば、先生はまさしく旧人類であった。だからこそ、Kに対してしたことを、自分のエゴを認めることが出来ずに最終的には自決に至ったのである。家という因習と決別したKの方がどちからといえば近代的個人でありえたといってもよさそうである。
もっともKはそういった屈強な自己を持っていながら、それ以前に単純に幼かったということだろう。
道と恋愛とに迷った時、彼は自分が信じてきた道というものを疑うことをしなかった。彼には自分の人生を何事にも勝る最上概念として捉えることができず、道というものを妄信する以外生き方をしらなかったのである。
自身の人生の上に道と恋愛とを二者択一する考え方ではなく、道を進む自身の前に立ちはだかる障壁として恋愛を捉えていた。道というものの奴隷という点ではKもまた、未熟なまま放り出された旧人類に違いなく、家との決別も道という主人の前にあっては当然の選択であったのである。

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)